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若いころA・ランボーにあこがれました。自閉症的性格だったので彼のように家から飛び出し、放浪をして、彼のように世の中を見、聞き、それを感じて…そして語ろうと思ったからです。また同時にイギリスの小説家であるデュ・モーリアの「わが青春は再び来たらず」を地で行こうともしたのです。父親コンプレックスの主人公はその若いにも拘らずまったく覇気がない。「自分なんて…」のかたまりのような青年でした。挙句家出して大陸に渡り、パリに住まい、生活の苦労をし、ケンカをし、そして彼女を得ました。しかし彼女はやがて「あなたは何のために私といっしょになったの?大人になるため…?」と言い残して彼から去って行きます。同小説の題名の通り、「青春は再び来たらず」なのであり、彼は自分が「若者らしく生きてない」といううっ屈の中で死にそうだった。だから爆発したかったのです…。畢竟青年は自分の行為が彼女の言葉通りであったことを痛感させられます。深い胸の痛みを覚えつつもしかし彼はこのパリでの体験により自分が青春の危機を脱したことを知りました。やがて彼は父母のもとへと帰って行きます。名誉も地位もある父親はなにごともなかったかのように彼を迎え入れ、相も変わらず彼に関心を示しません。しかし一人の女性の深い悲しみと犠牲を刻んだ彼はもはや大人であり、粛々とその後の人生を築いて行きます…。
往時の自分の家出の動機もこのようでしたがしかし上記の主人公と違って無明だった様には果てしがなく、その無明を隠すべくランボーという隠れ蓑を取ることができませんでした。無意味と思える2年間にわたる放浪の末に結局「自分はランボーではなかった」と悟ることしかできませんでした。そのような愚か者の詩集など意味がなかろうと思われるかも知れませんが、少なくも魂の遍歴の軌跡の中に何かを感じていただき、反面教師としてでも何かをつかみ取っていただければ幸いです。どうぞ、しばしのポエム散策をしてみてください。著者・多谷昇太(1970年代のバックパッカー)より。